神奈川県大和市の郷土史を紹介しています。大和に住んでいる方も、まだ来たことのない方も、「古くて新しい街・やまと」の魅力をぜひ感じてください
<その1公所 川と集落と家の名>…太平洋戦争後、昭和30年過ぎから、「○○林間」「つきみ野」などと名付けられた一帯は、ずっと長い間、「下鶴間村」でしたし、「字下鶴間」でした。続きはHPにて…
<その2 公所 アクタ川と神の岡>…大和市の北端から見て境川の左岸、鶴間橋の辺りにぽっかりと窪んだ空地が50メートルも町田市内に突っ込んでいます。町田側から望むと、定方寺の建つ高みが天狗の面、川の流れが天狗の鼻に見えます。続きはHPにて…
<その3 渡辺崋山と大山道を歩く1>…『游相(ゆうそう)日記』は天保2(1831)年に下の肖像画(筆:椿椿山)の渡辺崋山が神奈川県方面を5日間に渡って旅した時「日記帳」のようなものです。続きはHPにて…
<その4 渡辺崋山と大山道を歩く2>…江戸から相模の国に入った渡辺崋山(1793~1841)の旅は、いよいよ旅の目的である「お銀さま」のもとへ向かいます。続きはHPにて…
<その5 山田橋・坂・括られたセーノカミ>…民俗学者・柳田国男の著書『水曜手帖(てちょう)』は、「深見(ふかみ)」から文が始まる。続きはHPにて…
<その6 深見地区坊ノ窪>…岩船地蔵とは、ほとんどが享保年間に短期間で広がった珍しい地蔵である。時の第八代将軍徳川吉宗が岩船地蔵の生まれ変わりの人とされ、将軍にあやかった岩船地蔵信仰が大流行した。続きはHPにて…